日本初のNBAプレイヤー田臥勇太

アメリカのプロバッケットバールといえば、NBAですがNBAプレイヤーの平均身長は2メートルに近い198センチメートルとも言われています。でかすぎて笑ってしまいますが、2メートルの身長に100キロ前後はごく当たり前の選手達の中で田臥勇太さんの173センチメートルは、かなり小柄な選手になります。一般的な日本人男子身長なので、普通の日本人男子の中では小さいことはなく、ごくごく普通の一般的な身長ですがアメリカ人でかめのNBAプレイヤーの中に囲まれると、やぱりNBAのでかさが目立ちます。そんな中でNBAプレイヤーとなった田臥勇太さんは、日本人バスケの希望の星になりました~

田臥勇太

高校時代はバスケットボールの名門、秋田県立能代工業高等学校に進学しますが1年生ですでにレギュラーとなって3年連続で高校総体、国体、全国高校選抜の3大タイトルを制して、史上初となった「9冠」を達成しています。際立っている抜群のボールセンスですが、NBAへ挑戦するにあたって大きい選手と同じことをやってもだめ。自分が得意なモノをみつけて、それを磨き自分にしかできない気持ちを持ってプレ-をする田臥勇太さんは、日本バスケ界を背負う誇りを持ち合わせています。

バスケたのしいよバスケ

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小学校&中学校

田臥勇太さんの名前の「勇太」という名前は、1980年(昭和55年)10月5日に父親が鎌倉へ源頼朝の鎌倉入りを記念した800年祭でお神輿を担ぎに行った当日に生まれました。そして朝、陣痛が来て父親がお神輿を担いでいる時に生まれた男の子ということもあって、「勇ましく育つように・・」という思いが込められて「勇太」と名付けられました。出身地は神奈川県金沢区で、母親は高校時代に関東大会まで進んだという影響もあって小学校2年生の8歳でバスケットボールをはじめていますが、バスケットボールだけではなく子どもの頃から運動神経が抜群だったようで、水泳や野球もしてしました。

父親がNBA好きということもあって、録画していたNBAのプレーを見て田臥さんはNBAのスーパープレイに夢中になります。繰り返し繰り返しビデオを見て、ビデオデッキが壊れそうになったのも1回や2回ではないほどのい熱中振りでした。2年生でミニバスケットボールを始めて、3年生からは野球の経験者の父親からの勧めもあってソフトボールも始めました。朝はミニバスの試合⇒ソフトボールの試合⇒ミニバスの試合といったように、運動に熱中した子供自体を送っています。

ソフトボールではキャッチャーをしていて、中学に入ることにはシニアリーグの誘いもあったほどですが、田臥勇太さん本人が「バスケをやりたい」という希望バスケを選択しました。父親的には、野球をしてもらいたいなぁ~という気持ちが少しはあったようですが、バスケを選んだのは本人です。小学校の時にバスケでは、全国大会にも3度出場しています。中学校へは1993年(平成5年)に地元の大道中学校へ進学しています。

地元の大道中学には、野球部もサッカー部もありませんでした。もちろんバスケ部も強いこともなく一般的な中学校ですが、運動神経に自信のある男子生徒たちが、「ミニバスで全国大会に行った田臥とプレーしたい!」と、バスケットボール部に集まってきました。基本的に「オレがオレが」と自分からは前に出ない性格の田臥勇太少年ですが、バスケに関しては別でリーダーシップを発揮して、独自の練習メニューを作ってバスケ部の仲間を引っ張っていきました。部活の練習だけではなく、学校を終えて下校したあともチームメイトと集まりバスケの練習に励む中学時代を送っています。そしてもちろん家でもNBAのビデオを見て、NBAプレイヤーのプレイをチェックするとまさにバスケ漬けの日々でした。そして大道中学の3年生の8月に出場した全国大会では3位に入り優秀選手ベスト5にも選出されています。この大道中学校男子バスケット部が創設して以来初めての快挙とんらいました。そして中学3年生の最後の試合が終わった時に、バスケ部の顧問の先生に言われたことは『秋田の能代工業高校の監督に見せてみたい』という言葉です。中学時代には横浜で「田臥勇太」の名前はもちろんですが、全国にも「田臥勇太」という名前は知られるようになっていました。

野球よりサッカーよりバスケがもっと見たい

中学でCM出演

大道中学でバスケットボール漬けの毎日を送っている田臥勇太さんに、思いもかけない話が舞い込んできました。それはCM出演です。当時の大道中学校のバスケット部の顧問だった伊藤先生は「最初はテレビというのに恥ずかしがっていたのに、アメリカで撮影それもユーイングと聞いて態度がコロッと変わってね・・」と話をしていますが、当時のNBAの大スターで、当時ニューヨーク・ニックスに所属しているNBAプレイイヤーのパトリック・ユーイングとの競演をニューヨークで果たしました。

CMの撮影のためにニューヨークを訪れて、バスケットボールの聖地に足を運びます。日本人歌手が目指すのが「武道館」なら、バスケットボールの聖地は「マディソンスクセア・ガーデン」です。今までビデオでしか見ることがなかったNBAのプレーを、マディソンスクエア・ガーデンでを初めて生のプレーを目の当たりにあした田臥少年は、本場のプレーにファンとして、ただ興奮するばかりだったそうです。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。