バスケの名門「能代工業高校」

秋田県にある能代工業高校は、漫画家井上雄彦さんの「SLAM DUNK」に登場している「山王工業高校」のモデルとされています。多くのライバルが登場する中で最強の存在で「絶対王者」として立ちはだかる「山王工業高校」ですが、漫画の中でもかなりの最強ぶりですが漫画以上に強い、漫画を超えるほどの存在とまで言われるのが能代工業高校バスケ部です。能代市もバスケの町として、能代駅にはバスケットボールのゴールが設置されているほどです。横浜から高校進学先で選んだ能代工業高校でどのような活躍をしたのでしょうか。

バスケたのしいよバスケ

高校進学先の秋田県能代工業

地元の神奈川県にもバスケットの強豪はありますが、選んだ先は地元ではなくバスケットの名門・秋田県能代工業です。高校バスケットボール界の頂点に君臨して、選手は全寮制ということもあってバスケットに集中できる環境が整っています。そして能代工業は今までも数多くの日本代表選手を輩出していて、全国大会での優勝も40回以上を数えて負けることは許されない、常に勝つことだけが求められるという厳しい環境を自らが選びました。能代工業へバスケ部の見学を兼ねて体験もしてきて、自宅に帰っていったことは「能代に決めた」ということです。地元を離れ親元を離れることにも、まったく迷いもなく自らが決めた進学先が「必勝不敗」の文字を応援幕に掲げる能代工業高校だったのです。

選んだ理由を「ガードとしての自分の能力を生かして、そして伸ばしてくれるのは日本中で能代工業しかないと思っていた」と明確に能代工業を選んだ理由を話ています。父親は「本当にいいのか?!」と何度も何度も念押しをしたといいます。それでも本人の意思は固く、能代工業へ進学しました。

野球よりサッカーよりバスケがもっと見たい

田臥勇太高校での大活躍

そして入学してわずか2週間で秋田県男女総合選手権でデビューしていますが、この時にJR東日本秋田との決勝戦では、最多の26得点をあげています。見た目は高校入学したばかりの決して大きな身体とはいえない体格でありながらも、大人たちを手玉にとったかのようにゴールを量産するだけではなく、ゴールするように見せかけてパス回しをするというプレースタイルに、会場の視線は釘付けになりました。

能代工業高校という、バスケットボールの超名門高校を選んで、バスケットをする環境に身を置き、必死にプレーした田臥さんですが、この能代工業での3年間でも目覚しい活躍をしています。1年生の時からレギュラーの座を確保。そして1年生でレギュラーだけではなく、時には上級生までも引っ張っていきました。そして能代工業高校はかつてない前代未聞の大偉業を達成することになりました。それがインターハイ・国体・選抜大会の3大大会を、3年連続で完全制覇です。高校9冠という偉業を達成しました!!当然ながら秋田県能代市も、能代工業高校の偉業に沸きかえって能代市の観光ポスターに高校生の田臥さん起用。田臥さんが登場した観光ポスターは盗難事件が続出したほどです。

田臥勇太さんが高校時代に公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会です。それは金田詳徳(かねだよしのり)がいた仙台高校に敗れたわずか1回だけです。でも、この試合の際に田臥さんは勝負の瀬戸際に5ファールで退場しています。全国高校選抜では、3年連続でベスト5にも選出されています。そして高校最後の3年生の時には、地元で開催された「かながわ・ゆめ国体」に出場しています。全国高校選抜では東京体育館に1万人の観客を動員するほどで、田臥のプレーが見たいと満員御礼でした。この9冠目の試合が、能代工業高校で50回目になる全国大会優勝でもありました。そして現役高校生としては史上2人目となる全日本候補選手にも選ばれています。田臥選手の抜群の運動能力そして、変幻自在のパスセンスにその当時の当時の日本代表監督の小浜監督が目をつけて招集しました。

1998年(平成10年)、男子アジア・ジュニア選手権大会に出場して第3位となり、男子ジュニア世界選手権に進出しました。翌年の1999年(平成11年)1月には、史上初の特別推薦で能代工業高等学校が全日本総合選手権に出場したほどです。そしてこの2ヵ月後の3月に、ナイキ・フープサミットなる「全米ジュニア選抜」と「世界ジュニア選抜」に世界ジュニア選抜のひとりとして、日本人として初めて出場しました。7月に男子ジュニア世界選手権大会に出場して第14位となりました。

高校時代の3年間の数々の偉業と、見事なバスケセンスとテクニックを持つ田臥選手のもとには、国内の大学から数多くのオファーが寄せられていました。田臥はどこに行くのか?!と出場する試合は満員御礼で札止め、高校3年生の全国高校選抜決勝戦の試合前には、会場となる東京体育館の周囲をどこまでつづくのか。この行列は・・というほどまでに長い長い行列が続いたほどです。進学先については、学校でかん口令がひかれました。静かな環境で雑音に惑わされずに進路を選ぶべきという学校の判断からでした。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。