田臥勇太のNBA挑戦!

高校を卒業後の進路として、数々の日本の大学から進学先としてオファーが提示された田臥勇太さんですが、2月の下旬に、アメリカへで留学のための下見として、ひとりでの渡航となりました。中学の時にもCM出演でアメリカへ訪れたことはありますが、今回は航空券の手配からもひとりでしました。父親は高校3年間で常に団体行動をしているので、経験を積ませるため、またどこを見て廻るかもすべて任せたと語っています。ひとりで航空チケットも手配することができれば、アメリカ生活が嫌になってもすぐに帰ってこれるしという親御心です。そして日本の大学ではなく、高校卒業後の進路として選んだ先はアメリカのハワイオアフ島北部にあるブリンガムヤング大学でした。

バスケたのしいよバスケ

アメリカのハワイへ

田臥さん自身は「バスケットができるなら、進学先はどこだっていい」という気持ちですが、自身の持っている夢「NBAプレイヤー」になるためには英語が必要だということから選んだのが、特にバスケの名門でもないブリンガムヤング大学です。NBA入りを目指すには、まず英語を身につけることが大切だと考えたことから、ブリンガムヤング大学では英語の授業プログラムがしっかりしていることが決めてになったようです。

大学時代と悩み

そしてもちろんバスケット部へ入部していますが、と全米学校体育協会(NCAA)では留学生の場合には、英語である程度の成績を残さなければ、正式な部員とは認めないという規則があったため、必死になって英語の勉強に明け暮れて、バスケットができないというフラストレーションをウェイトトレーニングで発散していました。ブリンガムヤング大学での2年間は単位取得に明け暮れて、そして体格で負ける相手には負けない体力をと連日ジム通いも燃えて基礎体力も身に付きましたが、鍛えすぎた背筋に腹筋がついていけなかったことから、腰を痛めてしまい椎間板ヘルニアになってしまいました。

そしてブリンガムヤング大学での3年目で初めて選手登録された2001年(平成13年)には、全試合に「日本のジョーダン」と紹介されて先発出場をしてMVPに選ばれたゲームもありました。2001年8月にはヤングメン世界選手権に出場して第11位になっていますが、レギュラーとして先発出場するものの、チームのレベルとコーチの方針に満足することができずに、もっとバスケット漬けの生活を送りたいという気持ちから、ブリンガムヤング大学を退学することを選び、日本へ帰国するという道を選びました。

帰国後

日本へ帰国した田臥勇太さんが入ったのは、JBLスーパーリーグのの強豪チームのトヨタ自動車アルバルクです。バスケ選手としてプロの第一歩を踏み出しました。そして2002年(平成14年)5月にトヨタ自動車アルバルクへ入団して11月8日に、2002~2003年の開幕戦:新潟アルビレックス戦の第3クォーターから出場して、JBLデビューとなりました。14分の出場で8得点で2アシストです。そして田臥選手のデビュー戦になった試合には、満員御礼の3,323人の観客を動員しました。

そしてこの年JBLのレギュラーシーズン21試合・プレーオフ4試合すべてに出場して、通算113得点・63アシストを記録します。新人王を獲得して、オールスターにもファン投票1位で選出されました。そしてチームの方はどうだったのかというと、レギュラーシーズンチームの準優勝に大きく貢献しました。

日本へ帰国してJBLスーパーリーグで見事な活躍を見せたシーズンオフに、単身でアメリカへと渡ります。そしてアメリカでNBAのゲームを観戦したことで、再び田臥自身が目指すべき場所を認識することになりました。目指す場所で目標とするのは、NBAです。そのため、1年でトヨタ自動車アルバルクを退団して、2003年(平成15年)7月に、単身アメリカへ渡ります。アメリカへの渡航、そしてNBAへのチャレンジはまさにチャレンジで、日本でプレーするのとは違って何の保証も無いゼロからの出発で、ハワイでお世話になった大学のコーチをつてにして、NBAダラス・マーヴェリックスのサマーリーグに参加することになり、そのサマーリーグで初めてNBA選手と練習をしました。

サマーリーグっで田臥のセンスに目をつけたのが、コロラド州デンバーに本拠地を置く「デンバーナゲッツ」です。そして田臥さんは「デンバーナゲッツ」から最終選考も兼ねているキャンプに呼ばれることになりました。NBA本場のスピード感そして田臥選手の持つプレースタイルはマッチングすることになりました。練習の時点から存分に実力を発揮して、チームメイトからも仲間として受け入れられることから、田臥勇太さんのクセッ毛から「リトルパーマ」というニックネームも付けられてニックネームで呼ばれるようになるほど溶け込みました。

野球よりサッカーよりバスケがもっと見たい

NBA挑戦

9月にはNBAデンバーナゲッツと契約を交わすことになり、プレシーズン戦3試合に出場していますが、ロースター登録(Roster Registration:開幕出場選手登録)には残念ながら残ることはできずに解雇されることになりました。デンバーナゲッツのチームメイトには、173センチメートルの田臥勇太さんよりもさらに身長が低いアール・ボイキンス165センチメートルの選手がいましたが、彼からポジションを奪うことはできなかったからです。ちんみに165センチメートルのアール・ボイキンス選手はNBA史上2番目に低い選手です。

デンバーナゲッツのロースター登録はかなわずに解雇されることになりましたが、2004年(平成16年)9月6日にアリゾナ州フェニックスに本拠地を置く、NBAフェニックス・サンズと契約を交わし、2ヵ月後の11月1日にフェニックス・サンズのロースター登録されて、日本人として初となるNBAプレイヤーとなりました。そしてそれから開幕戦を含んだ4試合に出場しています。田臥勇太さんのNBAでのプレー時間は合計で17分、3アシスト7得点でしたが、12月18日にフェニックス・サンズを解雇されました。フェニックス・サンズでは、後にシーズンMVPそしてアシスト王になるスティーブ・ナッシュの指導も受けています。サンズを解雇された12月にはABA(北米の男子バスケット独立リーグでいわばセミプロ)のロングビーチ・ジャムと再契約して、NBAへの復帰を目指します。

2005年(平成27年)9月に、NBAロサンゼルス・クリッパーズと契約して、プレシーズン戦の7試合に出場しましたがシーズン開幕前の10月31日に経験不足を理由に解雇されることになりました。そして解雇されて数日後の11月3日に、NBA傘下のNBAデベロップメント・リーグに9巡目70位でドラフト指名されたため、アルバカーキ・サンダーバーズに入団しました。アルバカーキ・サンダーバーズではチームの主要な選手として活躍しましたが、シーズン後半に怪我で戦線離脱することになりました。

NBAを目指してひたむきにNBA挑戦は続き、2006年(平成18年)7月に、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加しています。4ヶ月後の11月にNBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャムに3巡目11位の指名を受けて入団しました。ジャムの前身はABAのロングビーチ・ジャムなので、田臥勇太さんは2年ぶりとなる古巣復帰となりました。2007年(平成19年)11月にジャムのロースターから外れて、ABAリーグのアナハイム・アーセナルへ移籍しました。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。