剛腕コミッショナーの存在

NBAが創設した目的はプロアイスホッケーに利用されるアリーナの空き時間を埋めるためが最初です。ナショナルホッケーリーグ:NHL、ナショナルフットボールリーグ:NFL、メジャーリーグベースボール:MLBとありますが、NHLはカナダで一番人気の高いスポーツリーグで人気の面ではNBAやMLBの方が上だとも言われていますが、個人的にはNHLはめちゃくちゃ面白いと思います。ウィンタースポーツということもあってNHLに所属するチームはカナダに近い州の方が多く名ッ英ますが、空いているリンクを使うという発想からきたNBAというのが面白くも感じます。プロホッケーが使っていない時期にということもあって、初代のコミッショナーにはAHL:アメリカンホッケーリーグの会長が就任しました。

NBAが世界的に大人気になったのは、バスケの神様マイケル・ジョーダンの存在といったスタープレイヤーの活躍はもちろんですが、剛腕といわれるコミッショナーの存在もかなり大きいので、剛腕コミッショナーとして名前を馳せたNBA第4代デビッド・スターンとはどのような人物なのでしょうか?!

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デビッド・スターン

ニューヨーク市出身のデビッド・スターンが第4代NBAコミッショナーとして就任した当時は、NBAは破産の危機に面していました。デビッド・スターンが就任して剛腕をふるったことで、世界的な事業展開へと成功させていますが独善的な手法にたいして、NBAの選手をはじめとしてチームのオーナーの一部からも彼の手法に対しては批判の声も上がります。

就任した当時のチーム状況と言えば、23チームのうち17チームが赤字経営だけではなく倒産寸前のチームもあるほどでした。スタープレイヤーがいないわけではなく、マジック・ジョンソンやラリー・バードとなどもいましたが、選手達の間では麻薬スキャンダルも渦巻いていた状況での就任でした。

生い立ち

1942年(昭和17年)2月1日にスターンはニューヨークで誕生していますが、食料品店を営んでいるユダヤ系の家庭でした。子供の頃からしばしば食料品店のお手伝いをしていたスターンは、子供時代のお店のお手伝いから勤労の倫理を店を学んだと後に述懐しています。子供時代のスターンは、他の子供たちと同じくバスケットボールをプレイすることがありました。そしてファンだったチームは地元の、NBA「ニューヨーク・ニックス」のファンでしてが、それ以上特にはバスケットボールとのかかわりはありませんでした。

進学先へ選んだのは全米で8番目に古い歴史を持つ「ラトガース大学」です。ラトカーズ大学は全米の州立大学のうちで、アイビーリーグと同じような質の教育を受けられるパブリック・アイビーでもあり、公務員になることをかんがえていたことからラトカーズ大学を選びました。大学では政治学と歴史学を学んで、優秀な成績で卒業しています。ライカーズ大学を卒業した後、コロンビア大学の法科大学院に進んで法律を学んでいますが、コロンビア大学大学院の最初の1年間は、お店のお手伝いをしながらの勉強でした。

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NBAとの接点が生まれる

1966年(昭和41年)に、コロンビア大学での課程を修了して、ニューヨークのプロクソーアー・ローズ法律事務所に就職しています。NBAの本部はニューヨークにあったため、彼に与えられた仕事は弁護士としてNBAの外部顧問になることでした。そしてNBAの外部顧問として、それから10年以上にわたって法律面での助言を行っていました。

1978年(昭和53年)その当時NBAコミッショナーだったラリー・オブライエンはNBAの法務部門立ち上げにかかわるようスターンを誘いそして要請します。スターンはこの申し出を受けることになり、法律事務所を離れて今度はNBA顧問として加わることになりました。そして2年後1980年(昭和55年)には取締役副社長としてコミッショナーに次ぐ地位に昇進しました。

ちょうどNBA顧問として加わった1970年代後半は、NBA選手の薬物使用スキャンダルなどで、NBAに対して悪いイメージがつきまとっていたこともあって、NBAの人気は低迷していたほかにも、労使間の紛争などもあり多くのチームは財政難に喘いでいました。そのためNBAそのものも、たいした利益を上げていない状況でした。1980年のNBAファイナルでは、新人だったマジック・ジョンソンが活躍した年でもありますが、NBAファイナルのプレー生中継ではなく録画、そのうえ深夜に放送されていた程度で、おまけに視聴率も思わしくなかったほどでした。

スターンはまず他のリーグに先駆けて、サラリーキャップを導入します。各チームに選手年俸の合計額の上限を定めることで、財政的な基盤の弱い球団の不利を軽減することが目的でサラリーキャップを導入しました。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。