NBA人気を確定したドリームチーム

NBAにチームも増えてまたスター選手の大活躍、そしてスピードとパワーがぶつかり合うNBAの試合がケーブルを通じて視聴することができるようになり、1990年に入りNBA人気は留まることなく大人気が続きます。1980年代のNBAはラリー・バードとマジック・ジョンソンがNBA牽引していき、1990年代に入るとマイケル・ジョーダンのシカゴ・ブルズがNBAの中で強豪チームとして台頭してきました。1991年にマイケル・ジョーダンの「シカゴ・ブルズ」が、マジック・ジョンソンの「ロサンゼルス・レイカーズ」を破って初優勝を果たすと、マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズの人気は頂点に達します。そしてNBA人気も世界的なものになりつつありました。

バスケたのしいよバスケ

NBA海外事業へ

アメリカはバスケットボールの発祥の地でもあり、バスケットボー大国でもあります。それが冷戦時代の1972年ミュンヘンオリンピックの決勝戦に微妙な判定でアメリカは当時のソ連に負け、1988年ソウルオリンピックでは、ソ連に一歩及ばず敗戦したため銅メダルに終わっています。選手育成といった面でソ連に有利な面があることは事実ですが、出場選手がアマチュアに五輪は限定されていたこともあって、アメリカのトップ中のトップNBAでプロとしてプレイする選手が出場できずに学生チームで戦いそして負けたことに、バスケット関係者は大きな衝撃を受けることになります。

ちょうどその頃に、サマランチ会長のもとで財政政権とオリンピック規模拡大を進めていたことと、アメリカ側としてもプロが参加すれば勝てるという気持ち、そしてNBAもリーグから最高水準の選手がオリンピックに出場すればオリンピックで優勝すれば、リーグの知名度向上に貢献できるという思惑があり、「ドリームチーム」となりましてあ。

ドリームチーム結成へ

そして1992年(平成4年)バルセロナオリンピックにNBA選手がアメリカ代表として参加します。プロの選手がオリンピックに参加することが明らかになると、ファンやマスコミは誰がドリームチームの代表に選ばれるかどうかということが話題となり、1991年(平成3年)HIV感染を理由に、NBAファイナルで5回の優勝経験を持っていて突然引退したマジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダン、ラリー・バードといった名選手が一堂に集まりました。そしてこのドリームチームはオリンピックを席捲して、NBAの知名度を世界的にさらに押し上げることに大きく貢献しました。このバルセロナオリンピックにドリームチームのメンバーの12人のうちの10人が1996年(平成8年)に「NBA史上の偉大な50人の選手」に選ばれています。また引退するまでにリーグでMVPを受賞した選手は7人を数えるほどの豪華なメンバーで、バルセロナオリンピック以降もドリームチームがオリンピックに登場していますが、歴代の中でも最高のアメリカ男子バスケットボール代表チームだといわれています。

1990年代のNBAは、海外への事業展開に力を入れたことも特徴としてあげられます。シーズン開幕前にNBAチームがヨーロッパを訪れてオープン戦を開くようになったのは1990年代に入ってからのことです。また1990年代の初頭から、NBAではシーズンの公式戦を日本でも行っています。

事業所を海外へも展開

NBAでは海外市場への展開を本格化するために、アメリカ米国以外にも事務所を開くようになりました。NBAの本部は現在ニューヨークですが、その他にもマイアミ、トロント、メキシコシティ、ロンドン、パリ、バルセロナ、東京、台湾、香港、シンガポール、メルボルンといったヨーロッパはもとより、アジアといった世界の主要な地域にも事務所を置いています。

カナダにチームを置くことも、デビット・スターンコミッショナーとNBAの願いでもありました。1995年(平成7年)にはバンクーバー・グリズリーズ(後メンフィスに移転)とトロント・ラプターズが創設されて、NBAは新たな市場をも獲得しています。

そして更なる新規市場の開拓を目指して、1990年代後半に入ると女子プロバスケットボールリーグの設立に取り組みました。そして1996年(平成8年)にWNBA((Women's National Basketball Association)がNBA前面支援のもと発足して、翌年1997年(平成9年)に最初のシーズンが始まりました。

1999年(平成11年)に大スター選手のマイケル・ジョーダンが引退しました。そしてジョーダンが引退したと同じ時期に、NBAは選手と球団オーナー側による労使交渉の行き詰まりによってロックアウトが発生したため、シーズンの開幕が4か月遅れるという事態に陥りました。このシーズン開幕が送れたことでリーグの人気は低下してしまい、NBAと各球団の収入も低下するという不利な条件にありながらも、デビット・スターンコミッショナーはテレビ局との交渉で放映権を24パーセント上乗せすることに成功して、ここでも辣腕ぶりを発揮しています。

野球よりサッカーよりバスケがもっと見たい

デビッド・スターンを統括する

1984年(昭和59年)にデビット・スターンがコミッショナーに就任してから20年以上の期間で、当初は破産の危機にあったリーグの収益は5倍になりました。そして観客の方は60パーセントも増加しています。アメリカ国内でも当初は注目度が低かったNBAの試合は、今では世界の200以上の国や地域で放送されています。営業面でのデビット・スターンの手腕は否定しがたいものがあります。スターンが手腕を振るった一代だけで、リーグの経営状況を大きく向上させたことはプロスポーツ界でもあまり例のない業績になっているほどです。

その一方で、NBAでデビット・スターンがコミッショナーとしてあまりにも大きな権限を行使していることであったり、規則の厳格な適用は一部で不評を買っていることもありました。リーグの規定を違反した者に対しては、選手ばかりだけではなく場合によっては球団オーナーであっても罰則適用の対象として、罰金の支払いが求められました。

また、リーグのイメージを悪くする恐れがある行為に対しても、厳格に厳しい態度で臨んでいます。スターンは挑発的な歌詞を含んだCDを発売しようとしたアレン・アイバーソン(フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)を批判したことで、結局そのCDの発売は中止になりました。その他、近年ではNBAが設けた服装規定つまりドレスコードも論争の的になりました。チームの選手として活動する時に、スーツの着用を求める規定に対して、ヒップホップ風のファッションに親しむ一部の選手からは「人種差別だ」という批判もあがったため、議論を呼ぶことにもなりました。ヘッドフォン・チェーン・ペンダントはもちろん禁止、その他ノースリーブシャツ、サンダル、Tシャツ、ショートパンツ、ジャージの着用も禁じられています。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。