NBAの変革

1970年代のNBAは薬物汚染が爆発的に広まった時期です。多くのスター選手が、アルコールはもとより薬物に手を出していました。選手の約60パーセントがマリファナを吸引しているという報道もなされたほどです。今の時代のように、薬物に対する健康被害もほとんど認知されていなかったことと、薬物に対する抵抗感も断然低い時代でもあったことも関係あると思いますが、NBAドラフト候補生達にも薬物問題が関係したほどです。

NBA変革の背景

1970年代のNBA薬物の象徴として語られることが多い選手の代表格はデイヴィッド・トンプソン選手です。"Sky Walker"という異名をとるほど、他に類をみない卓越した身体能力と才能があり、ノースカロライナ州立大学でのプレーで一躍全米に"Sky Walker"として誰よりも高く宙に舞いました。あまりにも高いジャンプ力だったので、バスケットボードの上に置いたコインをジャンプしてとることができる。というエピソードがあるほどです。彼の評判を聞きつけて、わざわざギネスブックが跳躍力を測定しにきたほどで、その時にでた記録が42インチ(約107cm)という記録でギネスコードに認定されました。大学卒業してすぐにNBAとABAが同時指名したほどで、NBAデンバー・ナゲッツに入団しましたが、プロスポーツ史上ルーキーとして最高額の契約を手にしてプロ入りして鮮烈デビューしていますが、プロバスケ界の寵児といわれるのも納得の1年目でした。オールスターゲームではルーキーでありながら、オールスターMVPに輝いたほどです。

バスケたのしいよバスケ

一気に転落の道へ・・

ノースカロライナ州のシェルビーで10人兄弟のひとりとして、南部の厳しい差別と貧しさの中でバスケットボールに熱中した少年時代を過ごして、そのまま地元のノースカロライナ州立大学へ進み大学時代を卒業して、一気に華やかなプロバスケットボールの世界に足を踏み入れたデイヴィッド・トンプソン選手は、田舎育ちで薬物などの誘惑に対しての免疫がないまま、ルーキーイヤーでスター選手に祭り上げられて、華やかな世界の裏に広がっている闇の世界に染まるのもあっという間でした。薬物の誘惑にすっかりはまってしまい、またスター選手としてのプレッシャーからかいほうされるために、薬物を使う頻度が日に日に増えていきました。

そして、薬物とアルコール中毒の影響はどんどん強くなり、練習の遅刻や無断欠席はもちろんですが、バスケットのプレイそのものにも身が入らなくなりました。1979~1980シーズンには足首の人体損傷でシーズンの大半を欠場していますが、故障という不本意な状況にますます薬物とアルコール依存に走ることになり、ますますパフォーマンスは低下していきました。そしてチームの成績もどんどんかこうして、ついにトレードに出されます。そして薬物中毒からの脱却を図り、リハビリ施設に入って完全復活を目指しましたが、かつての輝きを取戻すことはありませんでした。

そっしてプロ9年目30歳の時に、マンハッタンのクラブの階段で泥酔状態で足を踏み外して転落してしまい、左膝に大怪我を負ってしまいますがこの怪我が、プロバスケットプレイヤーとしてのキャリア全てを奪い、2度とプロのコートにあがることはありませんでした。

1970年代後半はNBA時代の中でまさに麻薬がはびこった暗部の時代で、デイヴィッド・トンプソンも本来ならば、偉大なキャリアをNBAで刻むべきまた刻むことができる逸材のひとりでしたが、薬物とアルコールのせいでたった9年でのプレーになってしまいました。

1980年代の変革

1984年(昭和59年)2月に、NBAコミッショナーを退いたオブライエンの後を継いで、デビット・スターンがNBAコミッショナーに選出されました。コミッショナーに就任したスターンが当初に取り組んだのは、薬物の使用をNBAから排除してとにかく悪いイメージを払拭することと、リーグを財政的に再建することでした。

スターンが指揮をとる下でNBAは、選手の薬物使用に関して治療の支援をするという方針を採りました。リーグ側が提供する薬物濫用の治療プログラムに取り組む者には更生の機会を与えましたが、薬物治療プログラムを受け入れない選手はリーグから追放することになりました。

1980年代にスターンがNBAを主導したときは、特にスター選手に恵まれた時代でもありました。コミッショナーに就任した1984年の決勝で、「ボストン・セルティックス」と「ロサンゼルス・レイカーズ」が対戦します。そして両チームのエースだったラリー・バードとマジック・ジョンソンは、バートがインディアナ州立大学そしてマジック・ションソンはミシガン州立大学と、大学時代からのライバル同志でした。NCAAトーナメント決勝でぶつかったラリー・バード率いるインディアナ州立大学と、マジック・ジョンソン率いるミシガン州立大学の決勝戦は歴代最高の視聴率を記録しているほどです。

そんな両者が対決した決勝のシリーズは、全米で大きな注目を集めることになりました。そしてシーズン終了後のドラフトでは、ロサンゼルスオリンピック金メダリストのマイケル・ジョーダンがシカゴ・ブルズに入団して、マイケル・ジョーダンの活躍でNBAは新たなファンの獲得することできました。NBAのスター選手、ラリー・バード、マジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダンは、日本にもファンができるようになるほどアメリカ本土だけに人気は留まらず、海外にもファンを獲得することになり、NBAは国際的な知名度を高め始めていきました。1980年代の末期にはNHKでも定期的にNBAの試合を放送するようになったほどです。10年前とか比べ物にならないほどの人気となりました。

野球よりサッカーよりバスケがもっと見たい

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ケーブル普及効果

1980年代はアメリカでケーブルテレビが普及した時代でもあります。NBAの球団の多くは地元のケーブルテレビ局と契約して、ファンは大手ネットワークが放送しない試合をケーブル局で視聴できるようになりました。ケーブルテレビでの試合の放送も、NBA人気の底上げに大きく貢献しました。

そしてこの時期に、デビット・スターンコミッショナーはNBA関連の映像などの商品化を統括するNBAエンターテインメントを設立します。NBAエンターテイメンツが関わった商品のうちで、初期にヒット作になったのはマイケル・ジョーダンのプレイをまとめたハイライトビデオ集でした。

NBA人気の高まりを受けて、スターンはリーグの拡大に乗り出します。1980年代末期の1988年に、新設球団「シャーロット・ホーネッツ」(現:ニューオーリンズ・ペリカンズ)が加わり、1989年には「ミネソタ・ティンバーウルブズ」と「オーランド・マジック」がリーグに新たに加わりました。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。