鈍足でもジャンプ力が低くても名プレイヤーになれる!

史上最高のスモールフォワードと呼ばれたのが、ラリー・バードです。マジック・ジョンソンのライバルとして比較されることの多いバードですが、他の平均的なNBA選手と比べても身体能力・運動能力には恵まれていません。スモールフォワードのポジションにしては高身長の206センチありますが、"Sky Walker"という異名もなければ”Magic"の異名もなく、バードがNBAに入団する頃には、リーグの多数は黒人選手が占めていたため、新人のバードは「白人の希望」と呼ばれることもありました。「白人の希望」とからかうチームメートもいたので、決して嬉しい称号ではありませんでしたが、特に運動能力に長けていたわけでもなく、それどころか足も遅く鈍足でおまけにドリブルも上手でもないバードが史上最高のスモールフォワードになったのはどうしてでしょうか?!

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永久欠番33

インディアナ州のウエストバーデンで6人の兄弟姉妹の4番目で誕生して、2人のお兄ちゃんにバスケットボールの手ほどきを受けて、町のホテルで働いている黒人の従業員とプレーしながらバスケットボールに親しみ成長していきましたが、地元のスプリング・バレー高校在学したころに、学年があがるとともに頭角を現していきました。高校時代につけていた33番をNBAに行っても使い続けることになりました。

高校を卒業した後、インディアナ大学に進学に進学していますが、大学になじむことができずに1ヶ月たたないうちに大学を辞めて帰郷します。そして再び地元で1年間、町の清掃員として働いて短大に通っていましたが、再び大学へ進学することを決心して、数多くの大学からスカウトがバードのもとを訪れて、選んだ先はインディアナ州立大学でした。

大学2年生の時に大怪我をします。ソフトボールで遊んでいて、右手の小指と人差し指を複雑骨折していますが、このときのケガの原因はなんでも基本に忠実なバードがゴロを両手で捕球しようとしたために、複雑骨折をしたといわれています。彼の人差し指はボストンのトレーナーによると、”ハンマーで叩き潰されたようにグチャグチャ”だといいます。複雑骨折してしまったという大変なハンディを負いましたが、バードはそれを練習で克服しました。

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バードのプレイスタイル

バードの特徴は、正確な技術そしてゲームの流れを読む能力に長けていたのが大きな特徴といえます。あだ名が「コダック」と言われるほど、試合の展開を正確に把握していました。「コダック」とあだ名を付けたのは、セルティックスの監督を務めていたビル・フィッチです。バードがカメラのように、毎回毎回試合中の各場面を脳に記録するという意味からカメラメーカーのあだ名をつけたほどです。

身体能力と運動能力には恵まれていませんでしたが、正確な技術はたゆまぬ努力の賜物です。特に中距離・長距離シュート、リバウンド、パスそしてアシストの技術に秀でていました。リーグ屈指のスリーポイントシューターでもあり、肩にボールを担ぐようなバード独特のフォームで、多くのシュートを沈めています。バードと同じく比較されるのがマジック・ジョンソンで、バードとマジック・ジョンソンはおなじようにオールラウンドな選手でした。

バードは206cmの身長があっても跳躍力が著しく低かっため、ダンクシュートは助走を付けなければ成功させることができませんでした。おまけに走ることも苦手で、足も遅かい身体能力でした。ルーキー時代の彼のプレーは、ドリブルも利き手の右手でしかスムーズに突けくことはできずに、そのドリブルでさえも掌でひっぱたくような危なっかしいドリブルでした。

NBA選手ではありますが、バードのドリブルなどをみるとバスケットボールそのものが苦手のように思われていました。ところがバードは、並外れた尋常ではないほどの情熱と闘争心、そしてたゆまぬ懸命な努力で、バードの身体の中に眠っていた才能を、段々覚醒させていきました。

身体能力の低さを補って有りすぎるほどの、バスケットボールに必要なすべての技術を身につけました。鈍足でも、必死になってコート上を駆け回りシュートチャンスをつくり出して、決定打となるシュートを幾度となく沈めました。バードはアウトサイドプレイを中心とする反面、ここぞ!という時には果敢にリバウンド争いに参戦して、ベストポジションでリバウンドをもぎ取っていました。ルーズボールにも怪我を顧みず飛び込んで行って、誰よりも必死にボールに喰らいついていました。「がむしゃら」にそして「ひたむき」に闘志を丸出しむき出しにして激しい情熱を押し出すハードなプレーは、観る者すべてを引き付け魅了しました。

驚異的な勝負強さを誇っていたため、土壇場でチームを救うプレーが数多くありました。スティール技術にも長けていたため、NBAオールディフェンシブセカンドチームに3度も選出されています。その一方で、チャールズ・バークレーのように「バードはディフェンスが苦手だ」と評価する人もいます。リーグトップクラスの選手でありつつ、なおかつバードの技術は年々向上していきました。利き手の右手と遜色なく使える左手で放つシュートは、プロ入りした後に上達させた技術の一つになっています。

シーズンオフになると、実家でトレーニングを行っていました。ルーキー時代に酷評されていたドリブル技術も向上して、バードのポジションはスモールフォワードでありながら、ドリブル技術とパス技術に長けているため、実質的にはマジック・ジョンソンのポジションでもあるチームのポイントガードを務めていました。バードは、ポイントガードの仕事をするフォワード、ポイントフォワードの先駆けといえるるでしょう。

1970年代までのNBAでは、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル=ジャバーのような、有力なセンタープレイヤーが試合の勝敗そしてチームの優劣を決めてきました。ところが、バードやマジック・ジョンソン、そしてマイケル・ジョーダンといったプレイヤーの登場で、ガードやフォワードの選手がゲームを支配することが可能になることが証明されました。この意味でバードは、NBAひいてはバスケットボールに変革をもたらした選手の一人ともいえます。

バードはとにかく強気なプレイスタイルでした。試合中に強気な態度を取ることが多くあり、相手の選手に挑発的な言葉を投げかけることでも有名でした。試合開始の直前に相手チームベンチにいって「前回のように今日も倒してやる」と宣言することもよくありました。相手ディフェンダーに対しても「お前の真正面からシュートを決めてやる」と言い放つだけではなく、実際に実行していました。

1984年のセブンティシクサーズ戦では、不調だったジュリアス・アービングに対して自分が得点する度に執拗に挑発したため、普段は温厚なアービングさえも激怒させたほどです。これをきっかけに乱闘が起て、バードとアービングは1試合出場停止の処分を受けています。

日本のプロバスケとNBAをとりまく環境はどうなってる?!

日本人初のNBAプレイヤーとなったのは田臥勇太です。NBAのスピード感あふれるプレーは目を見張るものがありますが、1970年代後半のNBAはリーグそのものも存続の危機に面した時代もありました。剛腕コミッショナーの存在で、アメリカ本土だけでの人気にだけではなく、世界中にファンを増やしたNBAはどのようにファンを獲得していったのでしょう~!日本のプロバスケの将来もそこに答えがあるかもしれません。